足を痛め、散歩を控えていた。
遠のいていた緑地へ、自転車で向かった。
たった一、二週間。
けれど、私の体の一部を置き忘れてきたような
欠落の感覚があった。
森でも林でもない。
ただ、一面の緑。
鼻を抜ける空気は涼しく、
その奥に確かな「緑の匂い」がある。
車の音はなく、
蝉の声、鳥のさえずり、風のざわめきが
空間を満たしていた。
――あぁ、そうか。
私がここに来る理由は、この緑と音と匂い。
私の体は、ここににあったのだ。
満ちていく爽快感。
小さな揺らぎに惑わされない心。
我が子をまるごと受けとめられる余裕。
これこそが、私に欠落していたもの。
ペダルを強く漕ぐ必要はない。
足は痛まない。
ただここにいるだけで
満たされていく。
それはきっと、大昔から受け継がれた
遺伝子の記憶なのだろう。
やがて何万世代ののちには
別の記憶に上書きされてしまうのかもしれない。
願わくば、そうあってほしくはない。
人は、失ってから気づくものがあるという。
私はそれを――
遺伝子の奥で、
確かに感じていた。
あとがき
今回、足を痛めたことで、強制的に散歩から距離を置かざるを得なくなりました。
そのおかげで、散歩はすべてではないけれど、私にとって欠かせないものだと気づかされました。
「私は運動と自然から多くを得ていたのだ」──そう実感します。
本に書かれているように、どうやらこれは私だけでなく、多くの人に当てはまることのようです。
けれど私は、目の前の報酬(散歩による爽快感や考えごとの解消)にばかり気を取られていました。
その結果、今は“おあずけ”の状態。長い目で見ると損をしているのかもしれません。
実際に散歩をしていない今、心の波がいつもより大きく揺れている気がします。
最後になりますが──
散歩の大切さに気づいたことで、「次に住む家は、木々が多くて自然の中を歩きたくなるような場所がいいな」と思うようになりました。
こうして出来事を振り返ることは、私にとって“丁寧に生きる”ことにつながります。
これからも折にふれて振り返りながら、人生を少しずつ良い方向へ育てていきたいと思います。
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