先日、「聴く」のセッションを行いました。
結論から言うと、今回は相手の話を十分に「聴けた」という実感を持つことができませんでした。
何が要因かと振り返ってみると、今回は「沈黙を無理に破らない」ことを意識して臨んだため、起こったことだと思いました。どんな場面でもこちらから言葉を発さず、静けさをそのまま残す。これは実験的な試みでした。
ところが、結果的に相手の方から「逆に質問」をされる場面が増え、私が話す側に回ることがありました。『聴く』練習の場だったので、それも悪くはなかったと思います。しかし同時に、『沈黙』についてもっと深く考える必要性を感じました。
今回の記事は、沈黙が苦手な方の重荷を下ろして挙げられるかもしれません。
沈黙にも意味がある。
沈黙には待っていいものとダメなものがある。
会話において、待っていい沈黙は一旦待てばいいし、そうでなければこちらが沈黙を回収するべきなのです。
待つ意味のない沈黙
「沈黙は活用すべき」という言説は多く見かけます。でも、今回の場面はそもそも「沈黙」と呼べるのか?
自分が問いを投げかけた後に相手が考えているのなら「沈黙」かもしれません。
けれど、相手が話を終えた後に私が受け取らず、ぽっかり空いた時間なら、むしろ「私の側の沈黙」だったのではないか。
そんなふうに考えると、沈黙への解像度が上がる気がしました。
先方からしたら、「あなたがしゃべらないから私がしゃべるよ」となったのではないでしょうか。
おそらく相手にはちょっとした不信感を植え付けてしまったでしょう。
『聴く』を提供する身としては失格です。
沈黙の分類と間
心理学や会話分析の研究では、沈黙にはいくつかの意味があるとされています。
- 処理の沈黙:考えをまとめている
- 感情の沈黙:気持ちを味わっている
- 関係の沈黙:安心感から生まれる静けさ
- 障害の沈黙:緊張や不安で言葉が出ない
一方で、単なる「間」も存在します。
会話分析の研究では「pause(間)」「gap(隙間)」「lapse(会話の途絶)」など、細かく分けて扱われているほどです。
つまり、私は『間』を『沈黙』として取り扱ってしまった恐れがあるのです。
セッションに活かすために
セッションで『沈黙』や『間』に出会ったとき、役立つ視点があります。
- 最後に話したのは誰か
相手 → こちらの反応待ちかもしれない
自分 → 相手の処理待ちかもしれない - 相手の様子
考えている、感情を抱えている、落ち着いている、不安そう…など非言語サインを観察する - 沈黙の長さ
この見立てができると、沈黙にただ耐えるだけでなく、その意味に応じて「待つ」「寄り添う」「言葉を添える」といった対応が選べます。
私のセッションでは画面をオフにしているので、視覚的情報は皆無です。
沈黙の長さについては調べていても所説あるので、まずは『1、最後に話したのは誰か』に留意して『沈黙』や『間』を感じるところから始めます。
終わりに
今回のセッションは、「沈黙を破らない」こと自体が目的になってしまい、相手の声を十分に受け取ることができなかったように思います。でもそのおかげで、「沈黙と間をどう区別するか」を考えるきっかけになりました。
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