「フロー」という言葉は、前から知っていました。
集中して、時間を忘れて、没頭している状態。スポーツや創作、仕事のパフォーマンス文脈で語られることが多い概念です。
正直に言うと、
自分にはあまり関係のないものだと思っていました。
大家の書籍も積読状態でした。
ところが最近、あるセッションのあとで
「もしかして、あれはフローに近い体験だったのかもしれない」
と思う出来事がありました。
セッション中に起きていたこと
そのセッションで、私は話し手でした。
誰かに話を聴いてもらいながら、自分のことを言葉にしていました。
気づいたら、時間があっという間に過ぎていました。
30分という枠が、体感ではかなり短く感じられました。
不思議なのは、
自分が何をどんな順番で話したのか、正確にはほとんど覚えていないことです。
それなのに、
終わった後には、はっきりとした満足感と幾つかの『大事なこと』だけが残っていました。
「いい時間だった」
理由はうまく説明できないけれど、そう感じたのです。
後から気づいた「フローだったかもしれない」という仮説
その場では、フローに入った自覚はありませんでした。
でも後から振り返ってみると、
フローの条件としてよく語られるものと、いくつか重なっていることに気づきました。
あくまで仮説ですが、整理してみます。
条件① スキルとチャレンジが釣り合っていた
セッションでは、自分のことを話していました。
それ自体は、慣れている行為です。
ただし話題は、
「何か気づきがありそうだけど、まだ深く掘り下げていないこと」。
安全だけれど、簡単すぎない。
わかりきった結論にはまだ至っていないテーマでした。
結果として、
スキルとチャレンジが、わずかにチャレンジ寄りの状態になっていたのだと思います。
条件② 邪魔のない環境があった
聴き手は、私の話を遮りませんでした。
評価もしないし、判断も下さない。
私は途中から、目をつぶって話していました。
視界から余計な情報が入らなくなり、
自然と内側に意識が向いていった感覚があります。
「ちゃんと話していい」
そう感じられる環境が、すでに整っていました。
条件③ 明確な目標があった
私には、はっきりした目的がありました。
「話すこと」ではなく、
話すことで、自分の理解を深めること。
「何か気づけたらいいな」ではなく、
正直に言えば
「今日は何か気づいてやるぞ」
くらいの気概がありました。
この主体的な姿勢は、
集中の深さにかなり影響していたと思います。
それでも、まだ確信は持てない
一般的に、フローに入るには
「ある程度の時間が必要」という見方もあります。
今回の出来事は、30分という限られた時間の中で起きたものです。
その意味では、
「本当にフローだった」と言い切るつもりはありません。
ただ、書ききれていない条件も含めると、
かなり多くの要素が揃っていた感覚はあります。
だから私は、
「フローに近い状態だったのかもしれない」
くらいの距離感で、この体験を捉えています。
私の個人的な考え:セッションにおけるフローは話し手側の要因が大きい
ここからは、あくまで私の個人的な意見です。
今回の体験を通して、
セッションにおけるフロー体験は、話し手側の要因がかなり大きい
と感じるようになりました。
たとえば、
「何かしら気づきを与えてほしい」
こうした、どこか受け身で主体性の欠けた態度では、
フローに入りにくいのではないかと思うのです。
少なくとも、私自身はその状態では、
あの深い集中には至れなかった気がします。
一方で、
聴き手にとって本当に大事なことは、
「話し手の語りを邪魔しないこと」
それだけでも十分なのではないか、とも思っています。
ここから導かれる問いは、ひとつです。
主体性の欠ける話し手に、どうやって主体性を持ってもらえるのか?
そしてこの点については、
聴き手にも出来ることがあると、私は考えています。
要は、
「人はどんな環境に置かれたとき、話したくなるのか?」
その問いを前提に、技術を磨いていきたいのです。

コメント