先日、その道のプロに話を聴いていただきました。
その時の興奮が冷めないうちに、文字にしたためておきます。
話を聴いていただき感じたことは以下の通りです。
- 私は聴けていなかったと再認識
- 私は聴きたいけど、話したくもあるんだな
- セッション終了後頭がほんわか温かい感じがした
私は聴けていなかったんだな
『聴く』体験を提供するセッションを終え、今回はその学びを深めるために話を聴いていただきました。
『聴く』とは、聴き手が話し手の話を自分の判断なしに聴くことを指します。
『聴く』体験を通して、話し手は内省がすすんだり、心理的安全性が高まったりします。
さすがその道のプロです。
「え、まだ掘り下げてくれるの?!」と感じるくらい聴いていただきました。
どのくらいかと言うと、私が聴く立場だったらすでに納得してしまうレベルを超えて掘り下げてくださいました。
逆に言うと、私の聴き方は足りなかったのです。
そもそも私はセッションで『聴く』ではなく『聞く』や『伝える』を多用していたことを再認識しました。
私は聴きたいけど、話したくもあるんだな
私は聴き手にいざなわれ、少し恥ずかしい夢物語を語ってしまいました。
その時に「この話をするとは思っていなかった」と自ら振り返っています。
これは聴き手の技術と聴く態度があってなしえたことだと感じました。
と同時に、私は本当はこの夢物語を話したかったんじゃないかなと思いました。
そう考えると、それを引き出してくれた聴き手は本当にすごい。
実は以前にも「この話をするとは思っていなかった」と別の話をした経験を思い出しました。
恥ずかしい。
私はただの話したがり屋ではありませんか。
しかし、人は元来話したがりな生き物だといいます。
引用を出せないのが口惜しいが、どこかの書籍でみた言説です。
良く聴けるために、程よく話しておくことも大事なのではないでしょうか。
何事もバランスが大切です。
『聴く』だけでも『話す』だけでも人生は上手くいかない。
『聴く』ためには、技術だけではなく聴き手のコンディションを整えることも大事です。
「話したい人はたくさんいますが、聞きたい人はごくわずかです。そしてここで目にするのは、そのために苦しんでいる人々なのです。私は告解で、好きなように話してもらいます。彼らは最後に、私と話ができてうれしかった、と言います。でも私は話をしていません。おそらく、彼らの話を“聴ける”状態に私自身があること、それが彼らが求めてやまないことなのでしょう」
ケイト・マーフィ 著 篠田真貴子 監訳 松丸さとみ 訳 『LISTEN』 chapter18 「聴くこと」は学ぶこと
カトリック神学校では、告解を聴く訓練はほとんどしていないとゴメス神父は言います。
彼にとって告解を聴く準備としていちばんいいのは、自分も定期的に告解することです。「謙虚な心で他の司祭の前に座り、自分の罪を告白しなければいけません。そうすることで、告解を聴く立場にいるとき、深い思いやりを抱けるのです」
今なら『聴く』ために『話す』意味が分かる気がします。
しかし、そうそう告白する罪もないので、好きなことを語れる居場所を自分で作ってみようと思います。
私が興味がある範囲で、すぐに出来ること。
好きな事について、同じ事を好きな人と、好きにしゃべって、そして受け入れてもらえる。
そんな場所をつくろうと既に動いております。
そのうちブログでも紹介しますね。
おまけ:セッション終了後頭がほんわか温かい感じがした
これに関しては、何が何だか分かっておりません。
内省が深まり、頭を使っていたのか。
感動したせいか。
話した後のすっきり感とも違ったんです。
あまり経験したことがない感覚でした。
この感覚がまたおとずれてくれるのかは、今後の楽しみにとっておきます。
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