先日、新小学一年生の長男が学校を欠席した。
熱もなく体の不調もないので、俗にいうズル休みだ。
きっかけは明確だった。
長男が登校の準備中にゲームをしていたので、私が「準備しない」と準備を放棄したからだ。
それをきっかけに長男はいじけた。
念のために言い訳をしておくと、私が声をかけたらゲームを止めて準備を一緒にするというルールを作っていた。
まぁ、このルールは私が一方的に作ったものなので、スマートなやり方だったとは言えない。
そこは反省。
体調不良でないのに学校を休ませたのは今回が初めてだった。
こういうケースでは、『学校には行かせるべきだ』『学校は無理して行かせる必要はない』と二つの論調を散見する。
私の態度を示しておくと『親が許容できるのであれば休ませる』になる。
今回の私の場合、頭に五月病がちらついたため休ませる決心にいたった。
脳内では『自分の作業が進められないぞ』と囁く私と『ムリヤリ登校させたらのちにもっと休むかもしれないぞ』と囁く私がいた。
最近仕事で五月病について勉強しており、下校後の長男の疲れた顔を見ていて心配していたところだった。
とは言え、休ませるには『親が許容できるのであれば』というのが、なかなか厄介ではあった。
決め手は最近気づいた私の価値観である『それは合理的なのか?』だった。
休ませるのが合理的なのか、登校させるのが合理的なのか。
私の子育ての根底に『家庭は安全基地で充電する場所でありたい』という思いがある。
『登校したくない要因があるのに、登校させるということを子どもがどう感じるか』と考えたら、登校させないのが私にとって合理的だった。
正式な疾患名ではない。
『新しい環境に適応できずに、心身の不調をきたしている状態』を指す。
新生活が始まり、ストレスフルな時期を頑張って過ごすが、五月頃になって心身の不調をきたすことが多い。
新1年生になり、慣れない事ばかりな長男。
そこに、ルールを守れなかったことを突き付けられ、挙句の果てに親が見放すような一言を放った。
我ながら、反省しかない。
長男はルール通りご飯と着替えを済ませてからゲームをしていたじゃないか。
ゲームの切りが悪かったのかもしれないじゃないか。
「お前の心にダムはあんのかい。」
心の中であんちゃんが語り掛けてくる。
長男はよくやっているじゃないか。
そこを認めてやれよ。
それがお前の合理性ってもんだろ。
あんちゃんはたぶん合理性なんて言わないと思うが、わたしにはダムより合理性が響くのだ。
新生活は良くも悪くもストレスまみれなのだ。
新生活に適応するために周りが出来るのは『ストレスをどうにかする』か『ストレスに適応できるように手伝う』ことだろう。
新生活のストレスに適応できるようにサポートするのが私の役目だ。
『ストレスをどうにかする』に関しては、私がストレス源にならないことが大事なのだろう。学校で受けるストレスはコントロール出来ないし、むしろ適度なストレスは歓迎するところだ。
『ストレスに適応できるように手伝う』に関しては、『よく食べ、よく寝、適度に体を動かし、リフレッシュを取り入れる』に限る。五月病は正式な疾患ではないので治療法など公式なものは無いに等しいが、これに関しては多くの専門家が言っている。
肝心の長男はというと、翌日は姉を置いて一人で元気に登校できた。
充電出来たのだと信じよう。
『一度休ませると休み癖がつくという』論調も見かけるが、普段の長男をみているとそうは感じない。
もちろん一抹の不安も覚えない無いわけではない。
そこは『子供を信じる』という親の愛はもちろんのこと『人間って出来るようになることに喜びを感じる生き物でしょ』という科学的根拠を胸に抱いていく。
そして我が価値観に立ち返り、心の中であんちゃんにこう語り掛けてもらおう。
「そこに合理性はあんのかい」
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